上手というのはどういうことを意味するのでしょうか?
幾年もの長い間ピアノを習っているということでしょうか?
それとも、曲をたくさん弾けるようになることでしょうか?
たしかに時間をかければ上手になりますし、また進歩が早いということも上手である一つの目安に違いありません。
けれども、小さい時から幾年も習い続けているわりには上達しない、またどんどん曲が弾けるわりにはそれほど上手であるとも思えない、などという場合が少なくないことを考えると、上手になるためには他に本質的な要素があるに違いないと考えさせられます。
結局それは、与えられた曲に対してできる限りの努力を尽くして完璧に弾こうとする態度、言い換えれば曲の完成度に敏感であること、これに尽きるといってよいでしょう。
この態度が厳しければ厳しいほど、曲には磨きがかけられて美しくなるのです。
もちろん完璧に弾くなどということが可能である筈はありません。
それは人間の能力の限界を越えることを意味するのですから。
たとえ完璧に弾くことができる筈はなくても、最善の努力を尽くしてそれに近づこうとする態度だけは厳しく持っていなければならないのです。
ですから曲をたくさん仕上げることは必要ですが、どれもこれもいい加減で完成度が低いのでは、単に曲を数多く知っているという程度で止まってしまいます。
もちろん曲を数多く知ることも価値のあることには違いありません。
しかし上達のためには、曲の数は比較的少なくても、一曲一曲をできるだけ丁寧に仕上げていくようにすることが良い結果を招きます。
音楽的な表現や細部のテクニックなどについて色々工夫を凝らし、研究し、練習を重ね、納得のいくまでその曲を仕上げておくならば、勉強の成果は大いに上がります。
ピアノを全く知らない人の耳には、どの演奏を聴いても同じように聞こえるということです。
つまり素人の耳は、どこがどうと指摘することができず、漠然とした感覚ながらも何となく全体の印象から上手・下手を感じるという程度ですが、音楽の教養が深まるにつれて、漠然とした判断の感覚が次第に具体性を帯びたものとなり、細部にわたり詳しい批判ができるようになります。
どの点がどう上手で、どの点がどう下手なのか、はっきり指摘できるようになるのです。
上手になるには、このようにまず演奏に対する正しい批判ができなければなりません。
演奏の良し悪しの判断は、結局は自分自身が最後の決定を下すものです。
しかし、その判断は演奏に関する深い知識と経験とによって裏付けられていることが望ましいのです。
このような演奏に対する正しい批判力は一朝一夕に養うことはできません。
全くの素人と同じ段階にある学習の初歩から、長い期間を経て徐々に鍛えられていくのです。
ですから、上達のためには常に厳しい客観的な批判の目にさらされていることが必要である、と言い換えることができるでしょう。
その目が演奏の欠陥を掘り出し、訂正し、より良い演奏へと導いていくのです。
その目が密であればあるほど演奏の傷は容赦なくあばき出され、演奏者がそれを正す態度を持つならば、その演奏はさらに良いものとなっていきます。
大多数の場合、他人の演奏には批判の目がよく働きますが、自分自身の演奏にはそうはいきません。
ですから、上手くなるには、自分以外のより厳しく高い存在が必要になるのです。
コンクールを利用するのも一つの手段です。
コンクールに参加する目的は、上手くなるためです。