反省。結城美帆子

鍵盤の位置がわからない生徒さんがおりました。

猛反省です。

バイエルが終わり、復習を兼ねて「エリーゼのために」をレッスンしているのですが、鍵盤の位置がわかっておりませんでした。

わかったと思える生徒でも、初級が終わるまでは、毎回のレッスンで繰り返し確認をさせないとダメなのかもしれないと反省しました。

譜読みも読めたと思ってレッスンで譜読みをしないと読めてなかったりする生徒もおります。

生徒さんの能力を見極めて教えることが大切なのですが、これがけっこう難しいのです。

私の願い。結城美帆子

私がピアノを教えた子供たちが、たとえ何らかの障害を抱えていたとしても、自分の力で稼ぎ自立して自由に生きていける人間にだけ育って欲しいと願っております。

必要な支援を受けることはいいとしても、何の為に支援を受けるのか?誰を幸せに支援を受けるのかを深く考えると、私は心が苦しくなります。

病院に入院すると、今はソーシャルワーカーなる人がいて、看護師やリハビリの人もですが、「支援」と言う言葉を何度となく使ってきます。

誰を支援するのか?母が入院するたびに違和感を感じておりましたが、よくよく考えると、患者を支援するのではなく、介護をする私への支援と言う言葉ではなかったかと気づきました。

発達障害の子供が通っている「放課後ディサービス」も、子供の幸せの為ではなく、親の子育ての苦労と申しますか、手間を省くと申しますか、保護者の休息と申しますか、障害者を親だけに任せるのではなく、社会で面倒を見ようというのが、放課後ディサービスだったり、大人で介護が必要になった人が通うディサービスなのではないかと思います。

障害がある人の自立や、障害者本人の幸せを考えてのことではないように思います。

支援を受けることを悪いとは思いませんが、自由に外に出られるほうが良いと思う。

見守りという言葉がありますが、監視と言うことです。

最近は、障害者を受け入れているピアノ教室も増えてきたように思いますが、私の考えとは違うように思います。

「障害があってもピアノは弾ける」と言うことで障害者に教えていることが多いように思いますし、私も以前はそうでした。

確かに、ピアノは障害があっても弾けます。

それこそ、猫だって音を出すことはできますから、ピアノを弾けるといえば弾けます。

音楽療法の概念と、私が教えているピアノの概念は違うのです。

私は、障害があっても、ピアノが上手に弾けるように教えたいのです。

だから、障害者だけが参加できるコンクールに参加させることはしないのです。

社会で生きるということは、健常者も障害者も関係ないからです。

ピアノが上手に弾けるようになる為には、地道で継続した練習が必要です。

考える力、瞬時に判断する力、集中力、自制心などが育っていかないと、ピアノは上手く弾けるようになりません。

ピアノを長く続けると、考える力や、判断力、集中力、自制心など、生きていく為に必要な力、生き抜く力が育まれ、音楽を学ぶことにより豊かな人間性が育まれるのです。

障害があってもです。

だから、私はピアノを教えているのです。

これからの時代をたくましく生きていける人間を育てたいから、ピアノを教えているのです。

これからは認知症の人が増え、支援を受ける人が増えます。

支援をする人を育てなければ国を支える人間を育てなければ、国は滅びます。

バランスをとるのが政治家の役目ですが、国民一人一人が考えなければならないと思います。

お金は、幸せの為に使って欲しいと思います。

私がピアノを教えている究極の目的は、幸せな人生を送っていただくことです。

その為に、自分の人生を生きることができる「力」を私とのピアノのレッスンを通して身につけて頂きたいのです。