自閉症について

Ⅰ はじめに

最近のフランスの自閉症に関する理論、実践には非常に興味深いものがあります。それは、単に自閉症の治療の現場で作業を進めておられる方のみならず、精神分析理論の理解を深めようとする方、そしてそれをとおして人間存在を理解しようとする方にとっても貴重な見方や考え方を示唆してくれるものです。この発表を行うのは、ぜひ皆さんにその要点だけでも紹介したいと思ったからです。
1980年代に何人かの精神科医によって最初にラカン的精神分析理論が紹介されたときには、「父の名」という概念を用いた精神病理論が重要視されていました。つまり、本来の精神分析の対象である神経症についての理論ではなく、精神病についての理論を軸にラカンの理論が導入されたのです。精神科医が中心だったのでやはり精神病に関心が強かったのです。あの頃はラカン理論が何か新しいものをもたらしてくれるのではないかという期待によって、多くの精神科医がラカン的精神分析理論に関心を持ちました。一種のブームのようなものが生まれたのです。
あれから大分時が経ち、結局ラカン的精神分析理論は実践からは切り離され、単に思想的な関心からのみ取りあげられるようになりました。ラカンは実践には向かないというレッテルが貼られたうえ、精神分析そのものへの関心も薄れ、ラカンの考えは殆ど取り上げられることもなくなりました。それ以後は、一部の人のみによって細々と読み続けられて来たにすぎません。精神医学ではDSM[1]などの影響で精神分析的な観点は捨て去られ、現在では精神疾患には薬物療法以外の治療法はほとんどなくなっています。そして、精神療法の領域では認知行動療法が主流になってきています。このような状況の中で、今、自閉症についてのラカン的な観点を紹介しょうとするのは、自閉症を主体的な観点から捉えることによって、現在の非主体的な精神医学、臨床心理学とは全く違った考えを見せてくれるからです。このラカン的なパースペクティヴからみた自閉症についての考えを導入することは、過去の精神病を通してのラカンの導入に匹敵するような、斬新な心的構造の理解を可能にしてくれるでしょう。

Ⅱ 自閉症と言語

自閉症とは、極限状況にある人間の行動様式です。こうした極限状況の現象を解明することは、本来の状況のみならず、より一般的な状況における諸現象の理解をも可能にする貴重なものとなりえます。
では、極限的状況とは何を意味するのでしょうか。ラカン的な見地に立てば、人間が人間であるのは言語のおかげです。人間は言語的環境に生まれ、自ら言語を引き受けることによって初めて人間になります。ですから、生物学的には人間であっても、言語と関係のない世界で育つと、それはもう本来の人間とはいえないものになるでしょう。もっとも、過去のある種の実験的経験からすると、人間を生まれたときから完全に言語から隔離して育てると、生きていくこともできないようです。現代ではそのような実験はできませんのでそれを証明する方法はないのですが、それは言語が人間にとって本質的なものだということを示しています。動物には本能というものがあり、本能によって行動し、生きていくのに対して、人間には生きるための本能的行動様式が欠如しており、言語によってその空自を補わなければ生きていくことができないのです。
すべての人間は言語的環境のなかに生まれるのですから、すべての人間は言語的存在であると言えます。人間に飼われている動物たちも言語的環境で育ち、ある程度は人間言語を理解し、人間の命令を聞くこともできるわけですから、彼らも一種の言語的存在だと言うこともできるでしょう。しかし、そうした動物も人間とはやはり本質的な違いがあります。それは、人間だけが、シニフィアンによって構成される言語を使用するという点です。たとえ生まれてからすぐに言語的環境に入れ、常に語りかけてやったとしても、ボノボのような人間以外の高度な知性をもった動物でも、決してシニフィアンを人間的に使用すること、すなわち語ることには至りません。ですから、十全な言語的存在といえるものになるには言語によって語る必要があり、それが「人間の条件」なのです。
自閉症者が極限の状況にあるというのは、まさに彼らが『言語的環境において生育するにもかかわらず、言語を引き受け、言葉を語るための道の入り口で立ち止まっているからです。

Ⅲ 自閉症の原因

では、どうしてそのような状態に陥るのでしょうか。つまり、何が原因でひとは自閉症になるのでしょうか。
自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイム[2]などの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。
生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子どもが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになるでしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養育法にたいする非難もなくなります。しかし罪責感の問題は、実際はそれほど単純なものではありません。なぜなら、遺伝子などの生物学的な原因が認められたとしても、親は子どもにたいして、たとえば不利な遺伝子的条件を与えたとなどいうことで罪責感をいだくようになると考えられるからです。
現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。自閉症者が自らの存在を主体的に選択するなど一見ばかばかしい意見に聞こえるかもしれません。しかし、精神分析によると、人間は誕生してから非常に早期から、単なる動物としてではなく、主体として存在し始めるのだと考えられます。生まれてきた子どもが母親と関係していくときに、子どもは母親の態度にたいして単に受動的ではなく、主体的に反応をしていきます。そしてその積み重ねがその子の人格を形成していくのだと考えるのです。親と子どもは二つの主体として関係し合い、両者のぶつかり合いから子どもは形成されるのであり、子どもはけっしてすべて親の思惑通りに育つわけではありません。これは自閉症の子どもだけに当てはまる原則ではなく、すべての子どもがそうなのです。親に従順で親の言うことをすべて聞くようなおとなしい子どもは、自分自身の考えを不自然に押し殺していることもよくあり、それがあとで精神病として発症したり、思春期になって親にたいして大変に暴力的に振る舞うようになったりする可能性が高くなります。
子どもを非常にうまく教育した結果、その子が生育して才能豊かで情緒的にも安定し、人間関係もよく、社会的にも経済的にも成功したとすれば、親は大変に満足でしょう。しかしながら、親はそれを完全に自分たちの教育のおかげだとすることはできません。なぜなら、それは子どもが親の期待に応えてくれたからであり、そこには必ず子どもの主体的で特異な関与があり、つねにそこには子どもの特異性を示す何らかのマークを見いだすことができるからです。子どもを育てたことのある人はそれがよくわかるはずです。同じような育て方をしても、すべての子どもはそれぞれ異なった生育の仕方をします。そこに常にその子の主体性と言うべき特異性を認めることがでます。だからこそその子は生育すると自立し、個性をもった大人になれるのです。自閉症の子どもについても同じです。兄弟がすべて普通に育っているのに一人だけ自閉症になる場合ゃ、とても自閉症を生みだすとは思えないような子どもの扱いをしている母親の下でも子どもが自閉症になる場合もあります。それをみると、そこにはその子に固有なひとつの主体的選択があったとしか言えないのではないでしょうか。ラカンはそれを「存在の計り知れない決定 insondable décision de l’étre」と呼んでいます。

Ⅳ 自閉症の「選択」

自閉症の選択とはどのようなものでしょうか。自閉症者言語世界の入り口で立ち止まっているということでした。では通常人間はどのように言語世界に入っていくのでしょうか。ラカンはこれを疎外という図式で説明しています。次のょうなものです。
まず、生まれてきた子供は、母親から授乳や排池などのためのいろいろな世話を受けます。母親は言語世界の存在ですから、言語を通して子どもの世話をし、子どもとの接触において何らかの言語的マークを子どもに刻印します。

図1

このときのSは、まだ意味を生みだすシニフィアンとしてのSではありません。母親との接触体験を表すもので、単独のシニフィァンとしてそれ自体に意味はありません。そして、これは母親との接触における快楽とか苦痛を表す印でもあります。この時点で人間はひとつの選択を迫られます。人間が言語世界に住んでいる限り、言語を受け入れ言語による意味を通して生きていかなければならないのです。ラカンはこの選択を「意味か存在か」を迫る要請だと言います。
この選択をラカンはユーモラスな別の表現を使って説明しています。それは、強盗に遭って「命か金か」と迫られるときに起こることに相当するというのです。この場合、

ー 命を取ると金を失う。
ー 金を取ると命を失うので結局金も失う。

こうした選択を迫られた場合、通常は金をあきらめて命を取るでしょう。これはほぼ強制的な選択なのです。
このことは、先ほどの図式では意味の選択をすることに相当します。そのときに存在は失われます。この存在とは何を指すのでしょうか。生まれてきた子供は、母親に守られた世界に生き、まだ外世界からは離れた固有の存在としてあります。意味を選択するということは、この固有の存在をあきらめ、すべての他者と共通する言語を使って意味の世界で生きるということです。ですから、ここではそれまでの満足形態を捨て去るひとつの喪失、子どもとしてのそれまでの欲動満足を断念するという体験をしなければならないのです。これは子どもにとってつらい体験ですが、人間として生きていくためには必要な選択なのです。そして殆どの人間は多かれ少なかれこの選択を生きていくのです。
ここでは命が選択されるのですが、その結果は金のない人生ということでやはりつらい選択です。

図2

この選択をラカンは疎外と呼びます。疎外とは、意味を選ぶことによって主体が固有の存在を失い、自分の外にある言語の下に自らを譲り渡し、言語の世界で言語的な存在となることです。言語は共通のものであり私的言語は許されないのです。
これをラカンのマテームで書くと、次のようになります。

図3

ここまで疎外の選択について語ってきたわけですが、この選択が選択である以上、別の選択も可能なはずです。それは殆ど不可能な選択ですが、自閉症者はそれを選択したと考えられるのです。ラカンのたとえで言うと、自閉症者は命、人生を捨ててまで金、つまり自分だけの大切なものを保っていこうとするのです。
自閉症者が疎外の選択を拒否するのは、言語の世界に入ると自らの固有の存在を失ってしまうからです。言語世界への参入は部分的になされることはありません。言語世界には仮借のない論理が働いていて、一旦そこに手をつけると、そこから離れることはできず、すべてが飲み込まれてしまうのです。っまり、Aがあれば次はB、C、D……と際限なく続くのです。自閉症者が言葉をしゃべらないのは、自分自身が言語の世界にすべて飲み込まれてしまわないためなのです。
子どもが何らかの理由で親に叱られた場合、子どもは親の言葉に何の返事もせずにじっとして黙っている場合がよくあります。それは子どもが親の言葉に少しでも反応すると、それをきっかけに次々と親の言うことを聞いて親の論理に入っていかなければならなくなるからです。ここで子どもは自分の特異性を守るために沈黙し、一種の仮性の自閉症で親に対抗しているのだといえましょう。
では、なぜ子どもによって言語世界に参入することを受け入れる場合と受け入れない場合があるのでしょうか。さきほど、言語世界に参入するには子どもは自分自身の特異的な存在を捨てて言語の一般的な世界の一員となることを同意する必要があると述べました。このとき、やはり何かを捨てるのですから、その見返りとして何かが必要です。その見返りは愛されることによって得られます。しかし、単に愛といっても様々な形態があります。ここで必要な愛は、相手の存在をその特異性において愛することです。愛する人を亡くしたとき、なくなったものは他の何とも替えられないものであったことがわかります。それはその人をその人の存在そのものにおいて愛しているからであり、その人がお金持ちだとか、何かをできるからとかいうことで愛しているのではありません。子どもが言語世界に参入することを同意するには、このような愛が必要なのです。それによって、子どもは自分の特異性を保証したうえで、共通の、一般的な言語世界に入ることができるのです。
自閉症を持った親でも、子どもに対する愛情が欠けているとは思えない親もいます。たとえば、兄弟姉妹の中で他の子たちは皆ふつうに生活できるようになるのに、一人だけ自閉症になるという場合です。これは、結局のところ、親の愛についての判断は子ども側でなされるからです。子どもにとって、何らかの理由で十分な愛が認められない場合には言語への乗り換えは困難になるのです。そしてその判断は各子どもに固有のものです。ここにさっき述べた「存在の計り知れない決定」が認められるのです。

Ⅴ 心的装置について

では、言語に入ることを拒否すると、どのような事態が生まれるでしょうか。
抽書『考える足』[3]では、母親と子どもの最初の関係として「もの das Ding の排除とその知覚における回帰」に関する説明を行いました。詳しくはそちらを参照して頂きたいのですが、ここでもう一度簡単に説明してみましょう。
フロイトは「心理学草案」[4]のなかで、精神分析理論を構築するための原初的な母子関係の説明を与えています。それによると、最初、子どもにとって母親は理解できる部分と理解不能な部分に分かれるとあります。理解できる部分は良いものとして取り入れられ自我の基盤となり、理解不能な部分は危険なもの das Ding として外部に捨てられるのです。これは外部に捨てられるというよりも外部を構成すると言うべきでしょう。外部となったものはそのまま外部に残りますが、内部と切り離されるわけではありません。知覚というものは外部のものとの接触によって起こりますが、その際に das Ding としての外部も一緒に戻ってくるのです。das Ding が外部知覚を通して戻ってくると、知覚は不気味で恐ろしいものになります。ジュイッサンス(享楽)[5]はdas Ding によって引き起こされるのですから、私たちの知覚はジュイッサンスに汚染されていると言っても良いでしょう。ですから私たちは知覚をそのままに生きることはできません、それは主体を過大な不安に陥れるでしょう。心的装置は、その不安を回避するために、知覚にフィルターを掛けて知覚をいわば中和し、そのおかげで私たちは通常の感覚を得られるのです。
フロイトは心的装置の図式を次のように表し、私たちが知覚を意識化するときには無意識と前意識によって構成された複雑なプロセスを説明しようとしています。
現代は脳科学が発達しており、いかに外部知覚が脳を通して加工され意識化されるかが科学的に解明されています。これを図式化するとこうなります(図4)。
この二つの図式を比べてみると、結局フロイトの心的装置の考えと脳科学の脳機能の考えは、外面的には共通点をもっています。両者が異なるのは、精神分析では知覚のインプットのところにジュイッサンスが重なるのに対して、脳科学の場合にはインプットは単に中性的な刺激のみであるという点です。たとえば、脳科学では人間が椅子を見るとき、それは単なる意味のないイメージであり、「それは椅子である」という脳の概念化があって初めて椅子が認識されるわけです。ところが、精神分析的に言うと、椅子の知覚そのものが不安を引き起こします。心的装置は、無意識的過程によってジュイッサンスの引き起こす不安を処理するわけです。ラカンは、無意識は言語のょうに構造化されていると言っています。だから言語的構造が不安を処理するのです。

図4

Ⅵ 自閉症における自我と対象

ここでまた自閉症に戻りましょう。
自閉症者は言語の入り口で止まっている訳ですから言語構造を持っていません。したがって、無意識も作用しません。そうすると、知覚は直接主体を襲ってきます。ジュイッサンスの衝撃をもろに受けるのです。有名な自閉症者テンプル・グランディン[6]は、伝記のなかで、単なる音や言葉が、耳をつんざく列車の轟音の用に聞こえる、と言っています。

1 自我について

自閉症者には無意識がなく、その結果、一般的な自我を持つことができません。フロイトは「快原理の彼岸」[7]で、死の欲動を説明するために、刺激を感受する皮膚層をそなえた生きた小胞を持ち出し、それが自らに外皮膜をバリアーとして作り過大な外的刺激から自分自身を守るという仕組みを持っていると考えました。これは、じつは人間の精神構造のメタファーなのです。フロイトのこの生物学的モデルは主体の構造をあらわしており、外皮膜とは自我を意味し、小胞の内部は主体自身を意味しているというわけです。これによって自我と主体の分裂の構造が示されます。ラカンはこの主体を無意識の主体とか、言表行為の主体、分裂した主体、後期になると語る主体などと呼んでいるのです[8]
この自我の成立には、ナルシシックなイメージも関与しています。この間題はラカンが鏡像段階論で扱っています。ラカンは、鏡像が自我の想像的形態のべースとなるといっています。この身体イメージから、私たちが持っている身体感覚というものが生まれてきます。それは、主体の鏡像の引き受けによる身体イメージからやってきているのです。こうした身体は、外部とのコンタクトにおける主体の防御バリアーとなるのですが、自閉症者は鏡像段階をとおして自我を作ることができず、自分の身体を持っていません。自閉症者が身体的な直接のコンタクトを嫌うのは、外界、他者が自分に直接侵入してくるからです。自閉症者の衣服の下には何もないのです。

2 対象の喪失

疎外はシニフィアン構造の成立過程ですが、そこにおいて同時に対象に関する操作もなされます。疎外においては主体の存在が失われるわけですが、それは欲動の対象が断念され失われた対象となることと一致します。欲動においては、対象は失われた対象として作用します。ところが、自閉症者においては対象喪失がなされていないため、欲動は正常に働きません。自閉症者が他者とまなざしを合わそうとしないのは、まなざしが現前し、危険な対象となっているからであり、また、まなざしを通して、自分自身の存在を他者に知られないためです。また自閉症者はとりわけ言葉をまったくしゃべれない、もしくは、しゃべったとしても何かぎこちなく、他者に語りかけず、他者の語りかけにも反応しないません。それは声というジュイッサンスを帯びた対象を他者に譲り渡すことの拒否であり、他者からの声を通した言表行為による脅威を避けるという目的をもっています。これは、声がdas Dingとしての母親の恐ろしい呼びかけと重なるからです。
特に、自閉症者との対話では情動の発現、感情の交流がなされないと言われます。自閉症の主体にははっきりとした自我的バリアーが欠けているために、他者との交流において自らを隠す必要があるわけですが、情動の動きを見せることは自分の居所を暴露することになるので、自閉症の主体は情動の伴う言表行為、発話行為を避けるのです。話の内容が単なる情報の伝達であるとか、ロボットがするような言表行為を伴わないで話である場合は、彼らも危険を感じずに聞き取ったり言い表したりすることができます。自閉症者には歌うようにして語りかけると聞いてくれやすいというのも、そこでは言表行為が問題とならないからです。音楽においては機械的なビァノを使ったもの、バッハの平均率のような非情動的な曲に、より親和性を示すのです。
しかしながら、自閉症者に感情が無いというのは間違っています。ただ彼らは、それを外に出すことができないだけであって、内部では豊かな感情が隠されているのです。このこことはドナ・ウイリアムス[9]、テンプル・グランディンなどの著作を読めばわかります。
自閉症者は他の欲動対象、ロ唇的対象、肛門的対象についても同様に正常な欲動を作用させることはできず、食べること、排池行為にも問題が出てきます。
〈他者〉に関して述べますと、自閉症者には〈他者〉、シニフィアンからできあがった斜線を引かれた〈他者〉はいません。その代わりに記号によって構成される「合成された〈他者〉Autre synthétique」をつくりあげます。これは柔軟性に欠け、硬直した〈他者〉であり、ジュイッサンスを処理するには適切ではないものですが、自閉症者は、これに発展性を持たせてよりシニフィアンによる言語に近い機能を持った〈他者〉をつくりあげることがあります。

Ⅶ 自閉症の治療

次に自閉症の治療、自閉症における補填機能について述べましょう。
自閉症者は言語の世界の入り口で立ち止まっているのだと言いましたが、多くの自閉症者は、生育するにつれ言葉の使用力を獲得していき、それと共に社会的能力も身につけ社会の中でそれほど支障なく生活することができるようになります。それは自閉症者が一般的な人たちの持っている言語能力に類似した能力を作り上げ、それを利用しながら言語能力、社会的能力を高めていくからです。それが補填機能です。
それらの補填機能には、自閉症的対象、分身(double),特殊能力の開発などがあります。
①まず自閉症的対象ですが、これはウイニコット[10]の移行対象との比較がわかりやすいでしょう。
子どもは言語世界に入るときに対象を失いますが、この対象喪失の代償となるものが移行対象とよばれるもので、それは対象の喪失を補ってくれるものです。ここでは対象の喪失は受け入れられ、そのかわりに子どもは毛布の切れ端、ぬいぐるみ、何か柔らかいものを手にして離そうとしません。寝るときにもそれが必要なのです。
自閉症の対象も、やはり対象喪失の場に来るのですが、喪失が受け入れられているわけではありません。主体は対象を確保したままで、対象は姿を変えるだけです。自閉的対象の例はグランディンの身体の締め付け機械[11]、ベッテルハイムのジョイの機械などであり、移行対象のように柔らかい物ではなく、何か堅いものからできあがっています。
移行対象は隠喩的であり、自閉症の対象は換喩的であると言っても良いでしょう。
移行対象は成長するにつれて捨てられるのですが、自閉症の対象はずっと保たれます。
②次に分身についてですが、分身は自閉症における自我の創作、一種の主体の分裂の構築に相当します。
例を挙げると、ドナ・ウイリアムスにおけるキャロルとウイリー[12]がそれにあたります。
分身は、主体の代弁者、マリオネットです。主体は分身の後ろに隠れて糸を引いているのですが、決して舞台の前面には出てきません。それはイメージからできあがった想像的なものであり、通常の自我のような象徴界のバックアップを欠いているものです。
結局のところ、自閉症的対象も分身も、自閉症における不完全な自我を補って主体の分裂構造を保証するものだといえるでしよう。
③自閉症者の特殊能力について述べます。一般的人間において、言語は左脳によって、イメージは右脳によって扱われるといわれます。自閉症者は、左脳的な言語能力が欠けている分、右脳のイメージ的能力に秀でています。動く物体も一瞬見ただけで正確にそれを描写したり、本の一頁すべてを一瞬で覚えたり、ある種の計算に秀でたりするのは、この右脳的な能力によるのでしょう。そもそも普通の人でも最初は高度なイメージ的能力があったのでしょうが、おそらく言語的能力の発達によりイメージ的な能力は失われる、もしくは抑圧されてしまうのだと考えられます。
自閉症の「治療」は、補填機能をのばしてやることにかかっています。それには自閉症者の主体性を引き出してきて、主体自身に問題の解決を図らせなければなりません。自閉症に精神分析を直接適用することはできませんが、自閉症の治療に精神分析的な観点から携わることはできます。精神分析的観点による治療は、ラカンの精神分析家のディスクール(a→S)に表されているように、主体性を引き出すためにあります。この点が他の治療方法と精神分析との根本的な違いです。
他の治療法は、一般的に教育的方法をとります。その根拠となるのは、自閉症者の脳傷害説です。これは、自閉症をひとつの生物学的な病と見なし、それをアメとムチを使った教育法によって嫡正しようとする試みです。そこでは自閉症者は主体としては認められていません。こうした教育的な治療法の限界は、主体的な要素が欠けているというところです。たとえば、TEACCH[13]などの治療法は、やはり教育という外部からの押しつけを利用するので、逆に主体性を制限してしまう恐れがあります。

Ⅷ おわりに

自閉症というのは決して臨床的に厳密に分類できるような一様性をもったものではありません。それぞれの自閉症はそれぞれの特異性を持っています。ですから、自閉症者に対しては、それぞれケースの特異性に応じて対応する必要があるのです。そのためには、自閉症者自身の主体性を頼りにすることがもっとも豊かな結果をもたらしてくれます。テンプル・グランディンやドナ・ウイリアムスは、自分たちだけで自らの特異性に沿った解決法を見いだしていきました。彼らはその時々の状況で偶然出会った人たちの助けを借りながらも、一人でいろいろ工夫をして自らの道を拓いていったのです。しかし、彼らのような自閉症者にも、精神分析観点から何らかの援助が与えられるならば、彼らの労苦の多くを取り除くことができたでしょうし、またそれはより多くの自閉症者が自分自身の人生を自分の力で生きていくための支えとなるでしょう。
テンプル・グランディンは、自閉症者としての彼女の戦いを描いたフィルム[14]の最後で、「私は自閉症から治ったのではない、自閉症であることは変わらない。自閉症者は他の人と違うのであって劣っているわけではない」と言っています。自閉症とは病気ではなく人間の様々な生き方のひとつなのです。


[1] 米国精神医学界によって出版された、精神障害の診断と統計マニュアル。
[2] 米国の心理学者であり、自閉症の治療にも従事した。自閉症は養育者の態度などの後天的な原因で発症するという説(冷蔵庫マザー説)を唱えた。
[3] 向井雅明『考える足』、岩波書店、二○一二年。
[4] ジークムント・フロイト「心理学草案」、「フロイト全集』第三巻所収、岩波書店、二○一○年。
[5] ジュイッサンスとは欲動の満足であり、快感を含むが快感を超えた苦痛の領域、そして究極的には死にまで至るものであり、精神分析では人間の行動原理だと考えられている。
[6] テンプル・グランディン(Temple Grandin, 1947年8月29日ー)、米国の動物学者。自閉症者として『我、自閉症に生まれて』を出版した(マーガレット・M.スカリアーノとの共著、カニングハム久子訳)、学習研究社、一九九三年。
[7] ジークムント・フロイト「快原理の彼岸」、『フロイト全集』十七卷所収、岩波書店、二○○六年。
[8] このモデルはわかりやすいが、トポロジー的に言うと球形のトポロジーをもとにしており、外部と内部が分離されている。この点で、ラカンはフロイトのモデルを批判している。ラカンのトポロジーでは内部と外部は切り離されてはいない。
[9] オーストラリア生まれの自閉症者、主著『自閉症だった私へ』、新潮文庫、河野万理子訳、二○○○年。
[10] ドナルド・ウッズ・ウィニコット(一八九六ー一九七一年)、イギリスの小児科医、精神科医、精神分析家。対象関係論の中心的な分析家。幼児が母親から離れるときに手にする布の切れ端などに注目し、それを移行対象と名付けた。
[11] ブルーノ・べッテルハイム『自閉症・うつろな砦』、みすず書房、1980年。
[12] ドナ・ウイリアムス『自閉症だった私へ』、前掲書。
[13] TEACCHとは、「米ノースカロライナ州で実施されている、自閉症等コミュニケーションに障害のある子供達やその家族への包括的対策プログラム」の名称。個別教育計画(IEP)を作成し、「構造化された環境で認知発達を促す訓練をする」というコンセプトにしたがって行われる認知行動療法の一種。
[14] 『テンプル・グランディンー自閉症とともに』、クレア・デーンズ主演、ミック・ジャクソン監督、二○一○年。

向井雅明
一九四八年生まれ。
精神分析相談室。
精神分析家。
著書に『考える足-「脳の時代」の精神分析』(岩波書店、二〇一二年)等。