あるピアノの先生のブログに、
「理不尽なことは世の中に山ほどある。どんなに納得のいかない事でも、自分の中だけで折り合いをつけて全部後ろに流してしまうことが大事。前だけをみて、その悔しい思いをエネルギーに変えてさらに頑張っていくことが得策なの。」
とありました。
ピティナピアノコンペティションに参加した生徒さんが、何かの理由で地区本選に遅刻してしまい、減点をされてしまい、遅刻による減点がなかったら全国大会に進めたのに、、、、
との内容でした。
以前、私の生徒さんも、電車でコンクール会場に向かっていたのですが、乗っていた電車に飛び込んだ方がいて、電車が止まってしまい、コンクールに間に合わなくなってしまい棄権した生徒さんがおりましたが、あの時、私は理不尽なことに巻き込まれたとは思いませんでした。
高校生の時から長年指導を受けていた東敦子先生から「どんな理由があっても命がある限り約束を守りなさい」と教えられておりましたので、どんな事情でも間に合わなかったのが悪いのです。
コンクールにどれだけの価値を見出していたかにもよりますけど。
電車を使って会場に向かうのであれば、人身事故や何らかのトラブルに遭遇するかもしれないと考えて予定を組み行動することです。
それでも何かあって間に合わないこともあると思いますが、その時はその時です。
やるべきことをやっていれば、悔しい気持ちは湧いてこないと思います。
とは言え、理不尽と思うことも経験していますが、児童養護施設で暮らしている子どもたちと接してからは、色々なことに遭遇はしていますが、理不尽と思うことはなくなりました。
生まれてきたくて生まれてきたわけでもないのに、親から虐待を受けたり、育児放棄をされたり、挙げ句に親に命を奪われてしまう子どももいるのです。
その子どもたちのことを思うと、理不尽なんて思えないです。
世の中には、報われない努力もあります。
虐待や育児放棄で施設に保護される子どももいます。
親からどんなに虐待を受けても、親のところへ帰りたいと言うそうです。
子どもは本能的に親から見捨てられまいと、一生懸命に努力をするのです。
児童養護施設で暮らしている子どもたちは、自分の責任で親と一緒に暮らせないわけではないのです。
コンクールに遅刻したのは、どんな事情であれ、コンクールを受ける人の責任なのです。
もし私が人身事故に遭遇してしまいコンクールに間に合わず棄権をするしかなかった生徒さんの立場だったら、コンクールの会場の近くの練習室を探して予約を入れておき、3時間以上前に着くように出かけます。
遅刻した生徒さんには、会場近くにある練習室も教えてあったのですが、予約もされていなかったようで、コンクールの受付時間に間に合うように自宅を出られたようでした。
価値観と申しますか、生き方の違いなのでしょうね。
医療関係や介護の仕事だったら、台風が来ようが地震が起きようが、職員が来なかったら、職員がいなかったら、患者は入所者は利用者は命が危険にさらされるのです。
私は、介護福祉士の資格習得の為に、3年間障害者施設と老人ホームで介護の仕事を経験しましたが、台風が近づいている時などは、台風で出社出来なくなると大変なことになるので、職員は、前日から施設に泊まり込むこともありました。
私がいた施設は第一級身体障害者施設でしたので、入所者50人がほぼ全介助状態で、入所者は自力で食事をすることも、排泄をすることもできないので、職員がいなかったら死に直結してしまうのです。
色々な経験を積むごとに、理不尽と思うことも少なくなりましたし、悔しいと思うことも少なくなっています。
東敦子先生は、「運も実力のうち」と仰ってましたが、運が味方になってくれる生き方をしているかどうかです。
不平不満ばかり口にしていたら、運は去ってしまうと思います。
謙虚に日々感謝の気持ちでやるべきことを行っていれば、運は味方になってくれると思います。
私は、児童養護施設で暮らしている子どもたちに、「どんなに納得のいかない事でも、自分の中で折り合いをつけて全部後ろに流してしまうことも大事。前だけをみてその悔しい思いをエネルギーに変えてさらに頑張っていくことが得策なの」なんて言えない。
障害があるお子さんを育てている親御さんにも、言えない。
特攻隊でお亡くなりになられた方にも、言えない。
私が、児童養護施設の子どもたちを支援しているのは、利害関係が無い人の支援も大切と思うからです。
施設の子ども達から見れば、職員は子ども達の世話をすることで報酬を得て生活をしているわけですから、思春期くらいの子ども達は、職員に対しても色々な葛藤が起きてくると思います。
その葛藤を解消できるのが、利害関係が無い人間の存在ではないかと思ったのです。
ジャック・ラカンは「愛とは、無を与えること」と言っています。
「愛」がなければ、人間は生きていけません。
時々、利害関係が無い人が入ることで、子ども達と職員の関係が保たれるのではないかと思うのです。
障害者施設で介護の仕事をしていた時、入所者から「あんたら、俺らのうんこ取り(排泄介助)をして生活をしているんだろう。俺らはあんたらのメシの種だ」と言われたことがありました。
この経験からも、子ども達の心の成長には、利害関係が無い人間の存在が必要と思ったのです。
私は現在、つくば市の施設と都内の施設に携わっております。
この世に生を受けた全ての子ども達が幸せな人生を送ることが出来ますように!