死について考え方が変わりました。

私は、尊厳死を望んでいたのですが、多分どんなに考えても理想の死に方は無いように思えてきたので、考えないようにしました。

死に方を考える時間があるのなら、生きることを考えたほうが建設的では無いかと思うようになりました。

尊厳死も、安楽死も、同じように思えるようになってきたのです。

人生会議とか、リビングウィルとか言われますが、誰のためなのでしょうか?

いざという時、素人の患者は、どうすることがベストなのかなんてわからないですよ。

人工呼吸器にしても、エクモにしても、付けて助かる可能性があるか無いか、助かる確率は何パーセントかは、医師は経験値から高い予想ができると思います。

素人の患者に判断を委ねるのは、医師の無責任なのでは無いかと思うのです。

私はピアノ指導者のプロとして、生徒さんが、どうすればどうなるかシュミレーションができます。

コンペティションに参加される生徒さんに対しても、目標を達成させる為には、こうしてこうならないと達成できないとか、具体的に、いついつまでにこうしてこうなっていれば、こうなって達成できる、みたいなことが経験値からイメージできます。

命の判断は、死亡診断を書く権利を持っている医師が判断すべきでは無いかと、この頃思うようになりました。

母を介護している時、いつも究極の判断を瞬時に求められましたので、私の場合は、こういう時にはこうしてということを、私なりにシュミレーションしていたので、判断できましたが、想定外のこともあったので、全てが思った通りに行ったわけではありませんでした。

母は、不規則抗体を持っていたので、輸血の時の判断が困難でした。

命の判断なんて出来ないですよ。

自分がどう死にたいかなんて言えないですよ。

みんな本音は「死にたくない」と言いたいのではないでしょうか?

人間、いずれ死ぬわけですから、自分から死ぬ時のことなんて考えなくても死にますよ。

人生会議とかリビングウィルなんてことは、国が言い出したことなのではないでしょうか?

終末期の医療費を抑制する為に、国が言い出したことなのではないでしょうか?

一生懸命に働いて税金を納めているのだから、人生の最期くらいケチらないで欲しいと思うようになりました。

「役に立たないのは早く死ね」みたいな風潮は、嫌ですね。

安楽死や尊厳死って、優生思想のように思えてきたのです。

優生保護法下で行われていた避妊や去勢手術、堕胎は、優生思想です。

優生保護法に携わった医師は、安楽死協会の初代会長です。

安楽死協会が、尊厳死協会という名前に変わったのです。

尊厳死協会の名簿を見ると、著名な人が名前を連ねています。

優生思想は、障害者排除なのですよね。

せっかく生まれてきたのだから、生きたいように生きようと思う。

障害者だって、自由に生きる権利がある。

老人だって生きる権利がある。

いずれ死ぬのだから、何も死ぬ時のことなんて考える必要はない。

精一杯生きれば良いではないか。

義務を果たし、生きたいように死ぬまで生きようじゃありませんか。