日本の音楽教育の歴史(ピアノ教育)

日本の音楽教育の歴史(ピアノ教育)

行き詰まったときは原点に帰る。

維新後、明治政府は、「西洋に追い着き追い越せ!」と、新しい教育制度の確立に一生懸命でした。

「読み・書き・算盤」などの寺子屋での教育内容に、「唱歌」と言う科目を加えました。

なぜ「唱歌」が加えられたか?と言えば、「唱歌」即ち音楽を学ぶことによって、「より良い道徳感を育て、情操を育てる」という理想があったからなのです。

当然、当時の諸外国の教育制度を参考にしたでしょうし、又は「楽は礼に通ず」と言う儒教の考え方も加わっていたかもしれません。

当時の文部省の役人は自分たちで「唱歌」を学校で必須教科としたは良いものの、楽譜を読める人も居ず、ましてやピアノを弾いた経験のある先生も全くなく、文部省は「しばらくの間は音楽はやらなくても良い」と言い出し、「唱歌」を教えている学校は皆無の状態でした。

困ってしまった文部省は、明治12年に省内に「音楽取調掛」(現在の東京芸大の前身)と言う部署を設けて、長野県出身の「伊沢修二」と言う人物をアメリカへ留学させて、音楽教育の研究をさせました。

一生懸命に勉強して日本に帰国した伊沢氏は、今日の日本の音楽教育の基礎となる制度や内容を決定すると言う、大変に責任ある仕事をしました。

アメリカで師事したメーソン先生を日本に呼んで、教師の養成、教科書の作成、などに協力してもらいました。

文部省がそれまでに無かった音楽教育を取り入れた訳は、「①徳性の育成 ②情操教育の為。即ち音楽による人格形成を目的としての音楽教育」を導入したのです。

メーソン先生が、師範学校の学生にピアノを教える為に持参したのが「バイエルピアノ教則本」でした。

この赤バイエルで弾けるようになった学生たちが、その後の日本の音楽教育の先達となったのですが、その当時の考え方は当然(全く音楽を知らない学生の為に)楽譜の読み方から入ってピアノの弾き方を学ぶやり方(即ち理論から教えて、技術を身につけるやり方)でした。

バイエルは、教師になる為に学ぶ教則本で、ピアノを楽しむための教則本ではないのです。

長らくは、子どももバイエルを使ってピアノを学んでいましたが、安川加寿子先生がフランスのメトードローズを日本にお持ちになられてから、メトードローズで学ぶ子どもたちも増えてきました。

最近は、様々な導入期の楽譜がありますが、私は北村智恵先生の「ピーターラビットと学ぶ はじめてのピアノ教本1巻〜3巻」を使っています。

ただ、発達に障害があるお子さんの場合には、他の教本を使うこともあります。

私の個人的な経験からですが、自閉症の子どもは規則性はあるものを理解することが得意のように思うので、バイエルを使い基礎的なことを教え、 ブルグミュラー25番で音楽的な弾き方を教えています。

音楽は技術の為に学ぶものではなく、心を豊かにする為に学ぶものであり、人生を豊かに生きていく為に必要で大切なものを学ぶことです。

ピアノの学習を通して、思いやりのある素敵な人間に育ってほしいと願っています。

生徒さんがコンクールに参加をするようになってから、大事なことが抜けていたように思います。

私のピアノ指導の目的は、人間を育てることです。

ピアノ指導者の評価とは、10年後20年後に生徒がどんな人間に成長したかで評価されます。

コンクールのレッスンを始める以前は、毎年お教室の発表会を行っており、生徒全員に自分が演奏する曲の紹介やピアノについての想いなどを作文に書いてもらいました。

そして、全員に審査員になってもらって、優秀賞、努力賞、ファミリー賞、アットホーム賞、などを差し上げておりました。

作文は、知り合いの国語の先生に読んで頂いて優秀賞を差し上げておりました。

「おじいちゃんとピアノ」という作文を書いてくれた小学一年生の男の子がおりました。

おじいちゃんが倒れられてからご自宅でお亡くなりになるまでの、生徒さんのおじいちゃんへの愛が伝わってくる作文で、優秀賞に選ばれました。

バッハのインベンションを演奏された生徒さんは、当時の作曲家はなぜかつらをつけていたかのお話をされ、ご自身もバッハと同じようなかつらをつけて演奏してくれました。

浜辺の歌や唱歌を演奏された生徒さんは、矢羽の着物に袴で大正時代の女学生の髪型で演奏をしてくださいました。

発表会は、自分の音楽を披露する場ですから、これで良いのです。

一生懸命に自分が演奏する曲について調べて、自分の演奏をするのです。

みんなが主役のリトルピアニストです。

発表会の集合写真て、先生がど真ん中で写っている写真が多いと思いますが、私はいつもすみっこです。

だって、発表会の主役は生徒さんですから。

コンクールの集合写真も嫌いです。

金賞が真ん中で、銀賞、銅賞、奨励賞の順になる。

ピティナピアノコンペティションの結果特集号も、頑張った順番なのでしょうけど、後ろのページへ行けば行くほど文字が小さくなっている。

世の中には、頑張りたくても頑張れない人だっているのに。

成果主義で本当に良いのだろうか?

全ての参加者を平等に讃えることはできないのであろうか?

みんな一生懸命に練習したんですから。

努力を認めてあげるということが、教育というものなのではないでしょうか?

人間を育てるという音楽教育の原点に帰りましょう。