現在は支援クラスですが、来年から特別支援学校へ行かれるとのことです。
〇〇さんは、知的障害があるので、特別支援学校のほうが〇〇さんにとって必要な教育が受けられると思います。
学校教育とは、国語や算数などの勉強だけを教えるところではなく、生きるすべを教えるところであり、生きるすべを学ぶところです。
特別支援学校の授業カリキュラムの中には、電車の乗り方を教える授業や、社会の中で生きていく為に必要なことを学ぶ授業が多いように思います。
昔々は、障害がある子供は家に閉じ込めておいたり、閉じ込めるためのおりを作るための補助金が国から出ていた時代もあったようですが、今は、それぞれの子供に合った教育が受けられるようになりました。
私が障害があって支援を受けている子供達にもピアノを教えている理由は、一つでも得意と言えるものがあれば、それを支えに生きていけるのではないかと思うからです。
コロナの影響で、福祉の事業所に通えなくなった時に、一人暮らしをしていて、何もやることがなかった人たちは精神的にとても辛い思いをされた人もいたと聞きました。
コロナで家に閉じこもって自粛をしなければならない時でも、ピアノをやっていればピアノを弾いて日々を過ごすことができます。
何かやることがあれば、心の安定を保つこともできます。
知的障害がある方がピアノを覚えるのは、時間がかかってすごく大変ですが、親御さんもサポートが大変だとは思いますが、お子様の長い将来の幸せな人生の為に、頑張って欲しいと思います。
ピアノは、継続した人しか味わえない幸せがあるのです。
ピアノパラリンピック全国大会に参加されている方々のピアノの演奏って、とても素晴らしいです。
継続は力になるということを、彼らは実証してくださっているのです。
障害があっても、30年40年とレッスンを継続している方々の演奏は、人々の心を打ち、私たちの心を元気にしてくれる力があります。
彼らの演奏を聴いていると、人間が生きるということは何なのか?
人間とは何なのか?
あらためて考えさせられます。
私は、障害の有無にかかわらず、一般のコンクールに参加させて、一般の人たちと同等に競って勝って頂きたいと思っておりますし、勝てるように指導をしたいと思います。
ピアノは、障害の有無なんて関係ないです。
ピアノは、頑張ればコンクールで頂点に立てます。
私は、ただピアノを教えるだけでなく、ピアノが上手に弾けるように教えたい。
上手と認められる為には、コンクールでてっぺんになること。
何もないと、ただ上手と言っているだけで、自己満足で終わってしまいます。
障害がある人もいたと一般のコンクールに挑戦して、「障害があっても上手にピアノが弾ける、健常者になんて負けない」というところを見せて欲しいと思います。
障害者や介護が必要になった老人は、「支援」という言葉を上から浴びせられ続けます。
「ピアノは、健常者のあなた達に負けないよ」と、言って欲しい。
事実、10年程度でレッスンを辞めてしまう健常者よりも、彼らの演奏は上手です。
私の命がある限り、精一杯教えさせて頂きます。
障害者と一緒の発表会は、自分も障害者と思われるから参加したくないとおっしゃる生徒さんもおりますが、障害者も健常者も線引きは必要ないと考えております。
お互いに出来ることをやれば良いのです。
健常者だけが支援をするものでもなく、障害者や老人だけが支援を受けるものでもなく、お互いが出来ることをやればいいと思います。
私自身、障害がある生徒さんにお手伝いをして頂いたり、私ができないことをお願いしてやって頂いたりしております。