おはようございます。
ピアノ教師の結城美帆子です。
本日もブログにご訪問頂き誠に有難うございます。
昨日、ブルグミュラーコンクールの水戸での予選がありました。
通過点数が他の地区に比べてあまりにも低かったので、「なぜなんだろう?」と色々考えてしまいました。
ピティナピアノコンペティションでも、茨城県は穴場になっているようで、千葉県や東京・関東圏から受けに来ていると言う話は耳にしますが、それにしても低すぎると思いました。
参加者の演奏力の問題なのか?
審査員の問題なのか?
3名の審査員のうち2人は存じ上げている方で、そのうち1人の方は学生時代から存じ上げている方で、もともと何でも出来てしまう子でしたが、努力もすごかった人で、今の地位を築き上げた人で、性格的にはキツイ人で、幼児児童を教えている人ではありませんし、本気じゃない人には教えられない人のように思います。
3名とも、幼児児童や趣味の人を教えている人達じゃないように思いましたので、演奏を聴く視点が高かったのではないかとも思いました。
私の門下生は、受けに行っていないので、彼女たちがどのような講評をしたのかわかりませんので、あくまで私の個人的な想像です。
または、本当にレベルが低かったのかもしれませんね。
個人的な感想ですが、あの3人にブルグミュラーコンクールの審査員をやらせるのは可哀想な気がしました。
コンクールは目標になりますし、本気で努力が出来れば成功体験の積み重ねができて自己肯定感を高めることも出来るのではないかと思いますが、自分で目標を設定して本気で努力をした場合においてです。
「参加して運が良かったら予選通過出来るかも」など安易な気持ちで参加して、運良く通過してしまったら、「努力しなくてもいいんだ」と脳にインプットされてしまい、その後の人生において努力しない人に育ってしまいますから、指導者と親はよく考えて参加をさせるようにしないと、子どもの幸せを奪ってしまうことにもなってしまいます。
結城美帆子ピアノ教室では、ピアノの指導を通して、自立して生きていける力を育てることを教育理念としています。
目標を設定して努力ができる人に育ってほしいと願っています。
誰からも愛される人よりも誰をも愛せる人に育ってほしいと願っています。
思いやるのある人に育ってほしいと願っています。
どんなにピアノが上手く弾けても、他者を思いやれないような人間は音楽する資格がないと思うのです。
自分の出す音や奏でる音楽が、誰かを慰めたり励ましたり、願わくば誰かを幸福にすることができたとしたら、それが本ものの音楽であり、「心を込めて弾く」ということは、「誰かのために弾く」ということなのだと思っています。
13日の日曜日に、ブルグミュラーコンクールに参加する中学生の男子2名のペアレッスンを行った時のことです。
A君は、自分がB君よりも上手く弾くことでお母さんに幸せな気持ちにしてあげたいと言いますか、お母さんのために一生懸命に弾いているように思いました。
B君は、一生懸命に努力をしている生徒さんで、「僕は一生懸命に努力しています」ということをアピールしていると言いますか、自分の演奏を聴いてもらうことに喜びを感じているように思いました。
音楽は心を表現するものなので、心が表れるのです。
A君は、もう少し自分のレベルをアップする為に練習を続けると、お母さんをもっと喜ばせることができると思います。
B君は、指のコントロールが出来るようになると、力を入れなくても響く音が出せるようになるので、美しい響きのピアニッシモが出せるようになると、お母さんやお父さん・みんなを感動させる演奏ができると思います。
ピアニストなど、演奏家は、その音楽や技術、人間性など、舞台の上でのたった2時間で、全てが評価されることになりますが、ピアノの指導者は、教えた生徒が、どんな音を出し、どんな演奏をし、最終的には、音楽を通じてどのようなものの見方、考え方、生き方をするようになったか、ということでしか評価されない仕事です。
言わば10年、20年かかって、やっとそれらを確認することができる、すぐには結果の出ない、デイスタンスの長〜い仕事です。
どんな職業に就いても、
人々を幸せに導くことができる人間に育っているか?
社会の維持発展に貢献できる人間の育っているか?
幸せを分かち合える人間に育っているか?
どのような人間に育ったか?が指導成果ではないかと思います。
ゆえに、
趣味専門関係なくピアノを真剣に学んでいる人は、心が豊かに育つので、弱者をいじめたり、自分がいじめにあった時に自死を選ぶことはないはずです。
音楽で、みんなが幸せに生きられる社会になりますように!