ピアノの先生の介護日記「検証と反省」結城美帆子

私は、ポリシーがあったので、実は、母のオムツの世話をしたことが一度もありませんでした。人間の尊厳を守りたかったので、母に、オムツをするつもりはなかったので、病院に入院するとオムツをされましたが、本人も嫌がりましたので、退院してきたらばオムツじゃないパンツにしておりました。デイサービスの事業所にも、こちらの意向を伝えて了解してもらっておりました。デイサービスの事業所は、失禁をされて後始末をするよりオムツの方が介護の手間がかからないですからね。病院も同じで、トイレに誘導するより、オムツやバルーンを入れた方が(尿道に管を入れた方が)看護の手間がかからないですからね。口から食べさせるよりも、経鼻菅栄養で鼻から栄養剤を流した方が看護の手間がかからないですからね。介護認定調査の人にも経鼻菅栄養の方が手間がかからないので要介護度は低くなりますと言われました。本人の為ではなく、看護や介護ののために尊厳を無視され、オムツをされたり、経鼻菅栄養にされるのはいかがなものでしょうか?入院治療が必要な場合は、病院に従うしかありませんでしたが、歯がゆかったです。私は、母を管だらけにはしたくありませんでした。尊厳ある死に方をさせたいと思っておりましたが、入院した日に導尿バルーンを入れられておりました。理由を聞きましたら、「安静が必要なので」と言われました。しかし、いっこうに外す気配がなかったので、リハビリ病院に転院した時に、こちらから申し上げて、まずはオムツにしてもらい、間接導尿をしてもらい(尿道に管を長く入れておくと自力で排泄ができなくなるのです)、自力で排泄ができるまで回復させました。治療とは、何なのでしょうか?元々の機能まで失わせてしまったら治療の意味がないのではないでしょうか?医師や看護師に問いたい「何のための治療なのですか?治療って何なのですか?」と。一番不安に感じたことは、患者を継続して見ている人が一人もいないことでした。時間で担当看護師がどんどん変わりますので、患者の変化に気づけないのです。一貫して責任を持って一人の患者を見ている人がいないのです。頭がしっかりしている患者であれば患者自身が自分のことは自分で管理できますが、母のように脳梗塞で失語症になり意思の疎通が困難な患者の場合は、治る病気も治らないと思いました。私がピアノのレッスンで大切にしていることの一つ「相手の痛みに想いを馳せること」が医師も看護師も全くできていなかったのです。様子を観察することすらできていなかった。だから、母が脳梗塞を再発しているのに気づけなかった。病院だけではなく、色々なところで責任の所在がはっきりしないようなシステムになっているように思う。権利ばかりを主張するおバカな人が増えたという事と同じなのかもしれませんね。権利があれば義務もあると思うのですが、権利ばかりを主張して義務を忘れている人も見受けられるように思います。自分の命は自分で守るしかないですね。私は、自分の意思が無くなったら治療はいらない、いじくりこんにゃくにされてまで生きていたくない。自力で食べられなくなったら、リビドーの備給が停止したと言うことだと思うので、死を受け入れる時でもあると思っております。母が亡くなった直後は考える余裕がなかったのですが、時間が過ぎるとともに色々なことが思い浮かび、医師の治療方針と私の考え方に隔たりがあったことがわかってきました。医師の立場では、私が望んでいた治療はできなかったのでしょうが、患者ファーストで治療を行って欲しかったです。医師に望む、「患者の話をもっとよく聞いて、患者が何を望んでいるかを考えて治療に当たって欲しい」要介護者を生み出しているのは、医師だと思いました。患者は、医師が想像するような生き方は望んでいないのではないでしょうか?患者は、長生きだけを望んでいるわけではないのだけれど、医師は『生きたいと望むか、死んでもいいか」の選択を患者に迫ってくるが、どう死んでいきたいか、どう死んでいきたいかを考えさせて欲しい。もっと患者の気持ちに寄り添って欲しかったです。実は、母のことを思うと後悔で眠れないのです。筑波大学附属病院は、看護師も優秀だと思っていたのですが、どうも昔とは違っていたようです。昔は、筑波大学附属病院の看護師は、看護技術もケアも優秀だと言われていたのですが、今は違うようです。数名の方が言ってましたが、けやき棟になってからは、ひどくなったと。